パルメニデス 断片

はじめに

前回にひきつづき、ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)を読んでいます。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)
廣川 洋一
講談社
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今回は解説部分ではなく、後半に所収されているパルメニデスの著作の断片を読んでみました。この断片、まとまっているとは言え、文庫本でわずか12ページ。現存するテキストがこれだけというのも非常に残念なことではありますが、完全に失なわれてしまったソフィストたちの著作群に比べればまだマシと思うしかありません。

で、この断片ですが、ぶつぶつ切れていはいるのですが、完成状態では序詞、第一部、第二部に分かれているのではなかろうか、と言われているそうなので、それぞれ分けて読んでみます。

序詞

私(おそらくパルメニデス)は乙女に連れられて女神に会いに行く。

要約するとこれだけです。ちょっと読んだだけで「あ、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の元ネタはこれか!」とわかります。「私」が「超越した存在」から啓示を受けるロードムービーです。この作品ではどうやら「私」が哲学を「語る」のではなく、「私」は「女神」に真実を「教えてもらう」立場のようです。女神に会うまでの情景は何かの比喩が含まれているのだろうか、とも思いましたがよくわかりません。

女神はこう言います。

汝はここですべてを学ぶがよい。

まずは、玉なす真理の揺らぐことない心と、

ついでは、死すべき者どもの真の信頼なき思惑とを。

しかしなお、このこともまた汝は学ぶことになるであろう、いかに思惑されることがらが、すべてのものを不断に貫き通し、真実らしい在りようをもたねばならなかったかを。

これは当初、第一部「玉なす真理の揺らぐことない心」と第二部「死すべき者どもの真の信頼なき思惑」という意味だろうと理解していました。しかしそうすると最後の行がわかりません。

第一部で正しい理解を示し、第二部で間違った理解を示します。それを両方学んだ後には間違った理解をしている人がいるのも仕方ない、ということがわかるでしょう。

という意味なのか、もしくは

第一部で正しい理解を示し、第二部で間違った理解を示します。そして実は第三部(完結編)があるんです。ちょっとだけネタバレしますが・・・

という意味なのか。いずれにしても第二部が

これよりのちは、汝は死すべき者どもの思惑を学ぶがよい。

で始まることを考えれば、第一部と第二部に分かれるという説明であることは間違いないでしょう。全文が残っていれば最後の行の意味するところがもう少しわかるかもしれませんが、残念です。

第一部

おそらくこの作品の最重要部分がこの第一部だと思われます。

この本の訳では「ない」という言葉を使わず「あらぬ」で統一してあります。これは原典の意味を正確に伝えるためにそうしているのでしょうが、俺としてはあえて「ない」を使ってみます。パルメニデスが言っているのは

「あるものがある」と「ないものがない」は要するにどちらも「ある」って言ってるよね? つまりどっちにしろあるんじゃね?

人間は「ある」ものしか理解できないんだから「ある」しか言えない。「ない」は言えないんだ。「ないものがある」とか「あるものがない」ってのはそもそも矛盾だしね。つまりどうがんばっても「ない」ものを表現することはできない、「ある」ものだけを表現できるんだ。

よって選択肢は「あるものがある」と「ないものがない」の2つしかなくって、どちらも「ある」には違いないけど違うっちゃ違うよね。で。どっち選ぶ?

と。こんな感じで理解しました。

第二部

正直言って、この第二部が何を言っているのかはよくわかりません。それぞれの文の意味はわかるのですが、断片すぎるせいで女神が批判的に言っているのか真実として言っているのかがよくわからないのです。ここは力技でかなり強引に読んでみます。

すなわち、彼らは二つの形態を名付けようと心にきめた、

「二つの形態」とは、光と夜、男と女。ポジティブとネガティブ。つまり「ある」と「ない」。彼らとは真実をわかっていない間違った人々。

彼らは「ある」を言うだけでは不十分で、つい「『ない』がある」と言ってしまう。その理由は「ない」にも「ない」という名前を付けたからである。

彷徨い歩く身体の混合の比が、そのときどきでいかにあるかにより、それに応じて思惟が人間たちに現れてくるのだから。

愚かな人たちは光と夜の間も無理矢理どちらかに分類してしまう。

女と男が、ウェヌスの種子をともに混ぜ合わせるとき、(中略)異種の血からみごとに組み立てられた身体を作り出す。

「ない」がある、と思っている愚かな人々の考えに従うならば、「ある」と「ない」が混ぜ合わさって、新たな「ある」が生まれることになる。これは矛盾である。

これらのもののそれぞれに、人間どもは区別のための名前を定めおいたのだ。

新たな「ある」が生まれるたびに、名前を付けてしまうから、いろんな「ある」(「ない」も含めて)があり混乱しているのだ。

これらの考えはすべて間違っており、宇宙には「ある」しか存在しない。「ない」は存在しないのである。両方があると考えるから間をどちらかに分類してしまうような愚行に及ぶ。「ある」しかないのであれば間を分類することは不要である。全ては「ある」の濃度の問題でしかないのだ。

他の読み方もあるんだろうし言い足りてないんだろうけど、今のところこれで精一杯です。一行にまとめると、第二部で言っているのは

すべては「『ある』と『ない』の両端とその間」にあるのではなく、「『ある』の濃度」でしかないのだ。

ということではないかと。実は、ドゥルーズの言う「強度」に置きかえて理解しただけです。

最後に

パルメニデス、これだけのテキストではやはり物足りません。この他はプラトン「パルメニデス」に頼るしかないのですが、これはまだ入手していません。プラトンの著作は岩波文庫から多くが出ているのですが、この「パルメニデス」はなぜか出ていません。単行本で探していますが高いようなので、もし古本屋で見つけたら読んでみることにします。

なお、未読で言うのもなんですがプラトンの「パルメニデス」は書かれた時期もわりと遅く、登場するソクラテスにもプラトン補正がかなり強くかかっていると予想されます。また、プラトンとパルメニデスは面識はないはずですし、ソクラテスにしても年齢差を考えるとパルメニデスと直接対話できたとも思えません。そもそもプラトンとパルメニデスの見解はかなり異なるでしょうし、このプラトンの「パルメニデス」はかなりフィクション度合いの高い作品だろうと思われます。その辺も覚悟しておく必要があるでしょう。

あと、ハイデガー「パルメニデス」というのもあるようです。これも是非読んでみたいです。これとプラトンを両方新品で買うと1万円超えてしまいますね。どうしようかなぁ。

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