『エウチュプロン』プラトン

はじめに

ソクラテスの弁明―エウチュプロン,クリトン (角川文庫)
プラトン
角川書店
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前回からだいぶ間があいたのですが、その間何をしていたのかというと、『ソクラテスの弁明』と格闘していたのです。

この本は、たしか高校時代に買ったものです。なので今でも同じ版で売られているのかどうかわかりません。高校生当時これをどう読んだのか、今となってはサッパリ覚えていないのですが、今回はこれを合計6回通読しました。そんなに難しい本なのかというと、実はそんなことありません。文章は平易で難解な表現は特にありませんので、一度読めばだいたい言わんとすることはわかります。ではなぜ何度も読んだのかというと…なぜなんでしょう? 簡単に言うと「一度読んだだけでは手応えがなかったから」もっと言えば「古代ギリシアの哲学には時間をかけたかったから」という感じでしょうか。

ソクラテスかプラトンか

前回もプラトンの作品を読んだわけですが、あれはどちらかというとパルメニデスを読む延長で読んでいたので、プラトンの作品をプラトンの作品として取り上げるのは今回が実質初めてです。なので根本的な問題をここで論じなければなりません。

そもそも、ここに書かれているのは本当にソクラテスの発言なのか?それともプラトンが自分の考えをソクラテスに言わせているのか?

いろんな解説書などを読んでみたところ研究者のだいたいの見解としては、初期のものはソクラテスの発言をできるだけ忠実に記しているが後期になるとプラトンの主張が多くなってくる、ということのようです。俺の場合そもそもソクラテスは実在したのか?プラトンの創作じゃないのか?ということすら疑問なのですが、そこはほぼ確実に存在したというのが一般的な見解のようです。

そういうわけで、ソクラテスは実在し、初期の著作である『弁明』はほぼソクラテスの発言をそのまま記している、と一応みなすことにします。しかし俺はプラトンの著作をあえて「作品」と呼びます。それはやはり俺がこれらをある程度フィクションだと思っているからです。

エウチュプロン

で、今回は『弁明』…ではなく、同じ本に収録されていた『エウチュプロン』を取りあげます。

『エウチュプロン』は時系列としては『弁明』の直前の話で、裁判を控えているソクラテスが別の裁判の原告となるエウチュプロンと問答する、「敬虔とは何か?」を主題とする作品です。

親が殺人を犯したとする。それを告発するべきかどうか。告発することが敬虔なことであるのか、それとも親を守るのが敬虔なことであるのか。

この時代の倫理観が一般的にどのようであったかがわからないため、エウチュプロンの主張が普通でソクラテスが斬新ななのか、それともその逆なのか、その辺はよくわかりません。ですが、ここに取りあげられている文脈からすれば、現代の日本人の社会的な倫理観と同じく「親であっても殺人行為は許されないのだから告発すべきである」というのが一般的な主張で、あえてそれに反論するソクラテスの発言が斬新である、という前提でプラトンは書いていると考えるのが妥当ではないでしょうか。「ソクラテスは古い時代の人だからおかしなことを言っている」という解釈では読み違ってしまうでしょう。

ところで、ソクラテスが本当に「殺人を犯した場合であっても、親を守ることが敬虔なことである」と考えているのかはよくわかりません。もしかすると、単にエウチュロンの主張に論理矛盾を見付け、そこを論破しただけのことかもしれません。俺が読んでいる限りでは、ソクラテスの問答はこのように相手の論理矛盾を突くことそのものが目的で、彼自身の倫理観や政治的主張などを語ることが目的ではないのではないか、と思えることが多いです。

「敬虔」というイデア

エウチュプロンが「敬虔」と口走ってしまったためソクラテスは「敬虔とは何か?」と問います。そこでエウチュプロンはあれこれと答えますが、ソクラテスの質問への回答にはなりません。これは前回の延長線上で言うと、ソクラテスの質問がクラスに対する質問であったのに対しエウチュプロンがインスタンスで答えた結果です。つまり「果物とは何か?」という質問に対して「りんごやみかんのことです」と答えたわけです。

多神教について

エウチュプロンが質問の意図を理解し「敬虔」というイデアへの解説をこころみます。神に好まれるものが「敬虔」であり神に嫌われるものが「不敬虔」である、と。それに対してソクラテスは「では神々の間で意見がわかれたらどうなるのか?」と問い、エウチュプロンは答えに窮します。ギリシア神話は多神教なのでこの場面はもっともな話なのですが、キリスト教徒の人が読むとこの場面はどうなるのでしょうか? 現代であればクリスチャンであっても多神教の存在やある程度の客観的知識はあるでしょうが、歴史的にはこの問答を一神教の論理で理解しようとして苦労した時代もあったのではないでしょうか。あるいは「この時代は多数の神が存在すると思われていたのでこういった矛盾が議論されましたが、現代では神は一つですので『敬虔』の意味は明確ですね。」という説明で終了したのでしょうか。一神教はこの「~とは何か?」に明確な回答を示すために矛盾しない神が要請され生まれてきたのかもしれません。

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