ブックカバーなんちゃら2回目(追加7選)

2回目が回ってきたのであと7冊紹介します。今回もルールには従わず、一気に7冊紹介します。

前回は最近読んだ本の中からの紹介でしたが、今回は手近な場所にあった文庫本棚をざっと眺めてそこから新旧交えてピックアップしました。セレクトの基準はこの記事を最後まで読めばなんとなくわかると思います。あと今回は紹介文が長めです。

『オーパ!』/ 開高 健

僕は、小学4年生の時に初めて釣りを体験し、その後数年間どんどんとのめり込んでいった。

この本はちょうどその頃に刊行され、文庫本ということもあり、あちこちに持ち歩いて読んだ。「釣り」というテーマももちろんだが、外国の、それもヨーロッパやUSAではなく南米という未知の世界が舞台ということもあり、小学生の僕はとても夢中になった。今手元にあるのはその時の初版本第5刷そのもの(物持ちいい!)。

この本を久しぶりに開いてみて思ったのは、写真はすべて覚えているにも関わらず、文章は1/3ほどしか読んだ記憶が蘇らない。それもそのはず、当時は旅の工程事や食事に関するウンチクなどには目もくれず、釣りをしているところばかりを必死に読んでいたからだ。つまり記憶にないところは実際に読んでいない可能性が高い。

そしてもう一つ気づいたこと、それは「開高健の文章はとても読みやすい」ということだ。なぜこんなに読みやすいのかとしばらく不思議に思っていたのだが、ふと気づいた。「僕の文章に似ている…。」いや正確には逆で、僕の文章が開高健の文章に似ているのだ。書いている内容や語彙などが似ているというわけではなく、「、」の打ち方や「。」を打つタイミング、あるいは修辞的な部分が似ているのだ。おそらくだけども、少年時代の僕は無意識のうちに文体を開高健から学んでいたのだ。文学青年でもない僕は、幼少期からそれほど多くの活字に触れて生きていたわけではない。にも関わらず、これまでに長文を書くことに苦痛を感じたことが無かったのは(小学校の作文の宿題でも原稿用紙で80枚ほど書いたこともあった)、きっと開高健のおかげだったのだろう。

ちなみに今の僕の文体には、それはおそらくあまり残っていない。それはインターネットのせいだ。インターネット時代になって、特にSNSの登場以降、長文は好まれなくなった。文章全体の分量だけでなく、一文の長さも短く書くのが現代の主流になってしまったように思う。僕が何も気にせずにガガッと書いた文はだいたい「。」をなかなか打たず、いくつもの「、」でつなぐスタイルに自然となってしまうのだが、この文を正しく読んでもらえなかったりあるいは全く逆の意味に理解されたりしたことが過去に何度もあり、かなり矯正した。正確には矯正したのではなく一旦書いた長い文をあとから読み直して修正し複数の文に分割している。開高健の一文がとりわけ長いとは思わないけれども、僕の校正前の文と似た長さで、それは僕にはとても心地よい。

というわけで、この本は「釣り」を入り口として、小学生の僕に「外国の面白さ」と「文章の書き方」を教えてくれた貴重な本なのである。

『月曜物語』/ アルフォンス・ドーデー

この本は最近『最後の授業』を再読したくて買ったもの。

今、『最後の授業』を知っている人はある程度高齢の人に限られるという。『最後の授業』は長い間小学校の教科書に載っていた短編小説だが、僕の3つ下くらいを最後に教科書から消えたらしい。教科書への掲載について後年議論になった、ということを最近知ったので、それで読んでみたくなった。

舞台は普仏戦争時代のヨーロッパのある地方。フランスがドイツ(プロイセン)に負けてフランス語の授業がなくなり、これからはドイツ語しか使えなくなる、という状況下での先生と生徒の会話で構成されている。表面的には「フランス人にドイツ語を強制するドイツひどい」とか「戦争は非情だ」とかいう話なんだけれども(実際小学生の時にはそういう読み方しかしていなかったと記憶している)、実際にはこの地方はそれ以前から(フランス領でありながら)ドイツ語が話されており、それを矯正するためにフランス語を教える授業が行われていたが、それが中止になった、という大人の事情に振り回される子供の話だ。子供からしたら日常使っていなかったフランス語をわざわざ覚なくても良くなってラッキーだったのかもしれないし、覚えた子供にとっては何のために覚えさせられたんだよ、と不満だったかもしれない。いやそもそも、国境付近で暮らす人々にとってはフランス人だとかドイツ人だとかいう意識が元々低かったのかもしれない。

この物語がフランス寄りの立場で書かれていること自体がプロパガンダでもあり、日本の教科書になぜこれが載っていたのかもそしてなぜ採用されなくなったのかもいろいろ考えるべきことがあるのではないかと思うけれども、そういった時代背景への理解も含めて読んでみると何重にも考えさせられてなかなかに興味深い作品です。

ところで、子供の頃はもっと名作っぽい文章だと思っていたけど、意外と雑じゃない? 訳が違うのかな?

『宇宙からの帰還』/ 立花 隆

僕はそれほど夜空の星を眺めることに夢中になったことは無いけれども、宇宙にはとても興味があった。図鑑や百科事典の宇宙のページは何回となく眺めていて、ベテルギウスが太陽の何倍の大きさとかなんとかそういうことを読んでは関心していた(そういえばベテルギウスは近々消滅する可能性もあるとか)。小学生の頃はそういう無限に広がる幻想的な大宇宙への興味があったのだが、中学生ともなると徐々にもっとリアルな、現代の人間が行けるか行けないかのギリギリあたりの近い宇宙への興味に移ってくる。明らかにガンダムの影響だ。

そういうタイミングで読んだのがこの本。

これも手元にあるのはその時の初版本(物持ちいい!)。紙が茶色くなっている。明らかに何度か読んだにもかかわらず、今読み直してみて「ああここは読んだな」と思い出す箇所は一つもない。けれども「どこで得た知識なのかよくわからないけれども今知っている知識」の多くがこの本から得たものであろうことは間違いない。

中学生当時の僕はきっと、科学的興味や宇宙開発への技術的興味などからこの本を読んでいたのではない。SFの世界に出てくる「宇宙」がもう手に届きそうなところにある、という安心感を得るために読んでいたのだと思う。が、そこに安心感を得たところでそれが一体何になるのだろうか?

立花隆は何冊か読んだけれども、今手元にあるのはこれと『サル学の現在(ハードカバー版)』だけだ。

『現代思想史入門』/ 船木 亨

時は流れ、大学時代へ。

この本自体は最近(2015年)の出版物で大学自体に読んだものではないが、今回フォーカスするのはこの本そのものではなく、その著者である。

中学生あたりから YMO にハマっていたこともあり、大学生の頃の僕にはポストモダンな現代思想本を読み漁っていた。そんな折、文学部哲学科の友人Sのシラバス(いや熊本大学では当時シラバスとは呼んでいなかった気がする。なんと呼んでいたかな?)を読んでいたら、「ドゥルーズの思想」という講義があるのを発見した。大変興味をそそられたが、工学部の僕には何の関係もないので履修できるわけもない。そこで僕は友人Sに「これは絶対履修すべきだ」とか何とか言って無理やり履修させ、それに同行した。この講義を行っていたのが船木亨先生(たぶん当時助教授)だった。結局半分も出席していないと思うけれども(どうせ単位出ないし)、熊本というフランスからすれば極東国のさらに九州の僻地でドゥルーズに関する講義が受けられること自体が貴重だったし、当時無名だったと思われるその先生が今となってはいくつもの本を(だいたいはドゥルーズの解説書など)書いてそこそこ有名になっているところを考えるに、それが貴重な体験だったのは間違いない。

もっとも、その講義の内容は「ドゥルーズについて理解するにはまずフーコーについての理解が必要です。フーコーの思想は…(ここで1時間)…では次回からいよいよドゥルーズについて話します」というのが何週もつづき、いつまでたってもフーコーの話が続くというもので、立派なドゥルーズ講義とはとても呼べないものだったと記憶している。おそらく船木先生の中でもまだ研究中なのだろう、と20歳くらいの僕は生暖かい目でそれを見守っていた。

で、この『現代思想史入門』だが、通常「〇〇史」というタイトルだと、過去から現代までを時間軸に沿ってなぞる形式の本が主流で、特に哲学史だと哲学者が古い方から順に紹介されてその関係性がチャート図になっているようなものが主流であるが、この本に関してはそういうものとは違う。テーマごとに章が分かれており、章ごとにそのテーマに必要な登場人物として書く思想家/哲学者の解説を行う、というスタイルだ。これがとてもわかりやすい。いや事前に必要な知識の量としてはどっちでも同じかむしろこっちの方がより必要かもしれないので、わかりやすいかどうかは人によるだろう。理解の助けになりやすい、と言えばいいだろうか。

船木先生、良い本です!

『虹色のトロツキー』/ 安彦良和

アニメーターの神とも言える安彦良和がアニメを捨てて漫画一本でやっていくと宣言したのが1989年。この『虹色のトロツキー』は専業漫画家となった安彦の第2作目であり、また漫画家としての現時点での最高傑作である。

失礼ながら「アニメーターとしては超一流、ストーリーテラー/演出家としては二流」と世間で言われていた安彦があえて漫画家一本でやっていくと宣言したことには批判的な意見も多かったように思う。僕自身もアニメーターとしての仕事に期待していただけに、落胆したものだった。それまでの漫画家としての仕事といえば、『アリオン』『クルドの星』『ヴィナス戦記』などがあるが、アニメ化された『アリオン』『ヴィナス戦記』はまだしも『クルドの星』などはやはり僕以外の読者も「(アニメで見る機会が減ったことにより)安彦成分が枯渇していたので、仕方なく漫画でそれを補っていた」という状況だったと思う。そして、アニメ化された『アリオン』『ヴィナス戦記』(安彦自身が監督/脚本を担当)の方も、アニメーター/作画監督として参加した他の諸作品と並ぶほどの評価ではなかった。つまり「作画はいいけど話がつまらない」という評価だ。しかしそれは何と比較しての評価だったか。富野由悠季や高千穂遙との比較、あるいは宮崎駿や大友克洋との比較として語られていたのではなかったか。

専業漫画家になってからの安彦は、この「アニメファン」層から離脱し、新しい読者を獲得する方向に動き出しそして実際にそれで成功を収めた。僕も、この『虹色のトロツキー』は夢中で読んだ。今でもたまに読み返す名作だ。

安彦の漫画の作風は大きく分けると3種類ある。

1) 完全オリジナル作品:『クルドの星』『ヴィナス戦記』『韃靼タイフーン』など。
2) 史実や原作、伝記、神話などを元にアレンジした作品:『アリオン』『ナムジ』『ジャンヌ』『アレキサンドロス』『我が名はネロ』など
3) 史実や原作、伝記、神話などを元にしつつ、そこに元々登場しない架空の主人公を登場させた作品:『虹色のトロツキー』『王道の狗』など

この『虹色のトロツキー』は(3)にあたるが、おそらくはこの(1)と(2)のいいとこ取りともいえる作風が、安彦の本領を発揮できる手法だったのではないかと思う。舞台設定やストーリーをある程度史実に任せることによって補強しつつ、本題の主人公や描きたい人物たちの群像劇を描くことに集中する。その手法が功を奏したといえるだろう。出版社も時代設定も異なるが、実質的な後継作品といえる『王道の狗』と共に、10年に1度は読み返すべき作品だ。

『河童の日本史』/ 中村禎里

河童の研究書は出版されるとだいたい買うことにしている。この本は元は1996年に出版されたものらしいがそちらは読んだことがなく、半年ほど前に文庫化されたので手に入った。

河童は僕の中では「嘘や捏造、不合理な真実、大人の事情など、辻褄の合わない事象を無理やり整合するために作られた器」だ。最初に誰が考えたのかはわからないけれども、通常なら「神」に担わせるであろうこういった役割を、あえてこんな謎の生命体に負わせたところもまた秀逸である。

僕は他の人よりも記憶力がある方なので他の人の嘘に気づきやすい。記憶力と嘘に気づくかどうかがどう関係するのかわからない人もいるかも知れないが、これはとても関係している。

一般に、嘘をついた人は誰にどういう嘘をついたのかを覚えておき次回会った時にもその嘘に合わせた会話をつづけなければならない。しかし嘘をつづけるための辻褄合わせをすべて記憶することはとてもむずかしい。複数の人に違う嘘の説明をしている場合などは尚さらだ。なので、ある程度時間が過ぎると「もう覚えていないだろう」ということでその嘘をついたこと自体を消去して楽になる必要がある。しかし、相手(嘘をつかれた側)の記憶力がそれほどでない場合にはそれでも良いかもしれないが、相手の記憶力が高い場合にはそうはいかない。どういう嘘をついたのかを自分はもう覚えていないにもかかわらず、相手はそれを覚えているのだ。そうすると嘘がバレる。これは嘘つきにとってかなりのストレスになるらしい。

そこで、河童である。話の辻褄が合わなくなった時には河童の仕業にする。そうやって河童は生まれた。

そう考えると、河童がそれほど昔から存在するものではなく実質的には江戸時代以降に一般化したのにも納得がいく。文字がなかった頃あるいは識字率がとても低かった頃には、記憶の寿命は短く不正確で嘘の辻褄合わせはそれほど難しくなかっただろう。しかし江戸時代にはかなりの人が読み書きをできるようになり、それに伴って社会全体の記憶力が上がっていく。それに伴って河童が増えていった。

…と、これは僕の仮説だ。この本には一切こういったことは書かれていないので注意。

正直に言うとこの『河童の日本史』に書かれていることは、よくある河童本に書かれていることと大差ない。もちろん詳細なデータを引用しているので資料としては貴重であるし、著者の独自見解の部分についてはユニークなものもある。が、全体としては保守的で、ツッコミが足りない。なので持論を書いてみた。

『ふしぎ荘で夕食を』/ 村谷由香里

知り合いが第25回電撃小説大賞メディアワークス文庫賞を受賞し、本を出しました!

村谷由香里さん、知り合いと言ってもネット上の知り合いで実際にお会いしたことは一度だけしかないのですが、それまでに応募していた賞でも惜しいところまでは行っていたこともあって、「ついに来た!」という気持ちで昨年の受賞はとてもうれしかったです。

そしてすでに続編も出てますね。→ ふしぎ荘で夕食を ~思い出のオムライスをもう一度~

マストドン最高です。Twitter? Facebook? そんな出来合いのツールで満足なんてできませんよ。クリエイティビティはインフラにも宿る。最近はお忙しいらしくて書き込みを見かけることがないのですが、ひょうたんスピーカーの話を興味持って聞いていただいて「いつか私の作品にひょうたんスピーカー登場させますね!」という約束をしたのを覚えています。 いつか遠い将来にでもぜひ!

カテゴリ: 読んだ本/漫画 日付:

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