「やりたいことをやる」のは責任なのか?

ネット上で、

人が取るべき責任ある行動はただひとつ。自分が心からしたいことをすることである。

というマイク・マクマナスさんという人の言葉が流れてきた。俺はこの人を知らないし、その本意はよくわからないけれども、この言葉を好きな人やこの言葉を使う人の心理は良くわかる。こういう「自己啓発的な言葉」は今となっては「自分を鍛えるためのツール」ではなく「反省せずに自己正当化するためのツール」に成り下がっている。

だから俺はこれに反論する。

人が「やります」と断言してたことを、あとで「やっぱりやりたくなくなったのでやめます」と中止した時、それは責任ある行動だと言えるだろうか?

俺の答え:言えません

たしかに「やりたいことをやるべきだ」という意見は、一見ニュートラルな正論を言っているように見える。でもこれは、誰が誰に言っているのかによって意味が180度変わる。踏み出そうとする人が自分をふるいたたせるために言うのならわかる。しかし逃げ出す人がその言い訳として言うのならそんなものは糞だ。そして、この言葉を使う人はほとんどが後者だ。

だから、俺はこう言い換える。

人が取るべき責任ある行動にはいろいろある。自分が心からしたいことをすることも責任だし、やると言ったことを最後までやりとげることも責任だ。ところでこの両者に矛盾が生じた場合に、どちらをとるのが責任なのか?→義務を伴っている方を優先するのが責任です。

だよね?

「責任」というのは社会に対して示すもの。「権利」よりもまず「義務」を優先するもの。

だよ。加えていうなら、

もし「義務」を捨てて「権利」を優先したいのであれば、それを「責任ある行動」なんて自己正当化してはいけない。それは二重の意味で「無責任な行動」だ。せめて「私は無責任な行動を取っています」という自覚の上で行動すること。つまり「責任を負えないのなら、せめて無責任くらい負いなさい。それが最低限の責任というものだ

ということです。

もちろんマイクさん(くり返すが誰なのか知らない)の言ってることは「責任というのは義務だけを指すものじゃないよ、権利を行使するのも責任だよ」という、人生を豊かにするための「発想の転換」であって、確信犯としてこう言っているのだということは理解できる。でも、どう行動すべきかはその時々でいろいろあるにせよ、やっぱり「わがままはどこまで行ってもわがままであって、それは責任ある行動ではない」と言うしかない。定義のすり替えで自己正当化するのは欺瞞だし、それでは人は幸せにならないと思う。たとえその人自身は楽になったとしても社会全体はより苦しくなるよ。

やはり、悩める人が頼るべきは、自己啓発ではなく哲学だ(「宗教じゃなく科学だ」でもいい)とあらためて思った。

カテゴリ: 思索, 社会/政治/文化/哲学 日付:

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