1stガンダム世代の俺が00劇場版を肯定する日記

さっき見てきました。「劇場版機動戦士ガンダムOO」。観る前の予備知識としては、TVシリーズ全編視聴と劇場版の若干のネタバレ(監督発言によるもの)程度、掲示板やブログなどの前情報や感想は一切読まず、で見に行きました。

いや、良いんじゃないですか?これ。

拒否反応を示している人が多いだろうとなんとなく想像できるけど、俺は肯定するね。
※以下ネタバレ注意。

1) まず、エンターテイメントとしてどうなのかという観点で。

まずは冒頭の劇中劇を使った演出。あそこはダマされました。安っぽい戦闘シーンで思わず激怒して退場しそうになったけど、劇中劇だということがわかってひと安心。しかし、もしあの「安っぽい戦闘シーン」で手に汗握っている人がいたとしたら、その人は不幸だな。最低でもあそこで激怒できるくらいにはアニメを見るスキルが必要とされている作品ですね。00は。

その後も偏屈な演出もなく期待どおりのオールスターキャストで盛り上げてくるし、戦闘と非戦闘のバランスとかテンポも問題なし。アニメ映画として十分なクオリティだったと思います。

あのラストはどうなのよ、って意見はあると思いますが、あのぐらい単純じゃないと「今どきの若者」(あ、言っちゃった)には理解できないんですよね。富野作品のようなどうとでも理解できる作品だと思考停止しちゃうし、押井作品のような逆説的な作品だと間に受けてストレートに理解(つまり曲解)してしまう。だから「花が咲いてめでたしめでたし、みんなわかり合えてハッピー」くらいで丁度いいのです。エンターテイメントとして成立させるためには、ジブリやディズニーのレベルに合わせる必要があるんです。そのレベルに文句があるならジブリかディズニーに言ってください。

以上が普通のアニメ映画としての評価です。

2) 次に、「ガンダム」としてどうなのか、という観点で。

「ガンダム」として評価する時に、多くの人は辛口になるでしょう。それはあたりまえの話で、「ガンダム」と冠する以上、商業的にはある程度の成功は保証されてるようなもので、それはある意味品質保証でもあるわけです。もちろん実際にこれまでのガンダムが全て高品質だったのか?と言われるとそうでもないんですけどね。

で、「ガンダム」としてどうなのよ?に対する俺の見解は以下のとおりです。

製作者が、そして多くの観客がこの作品に対して「『ガンダム』としてどうなのよ?」を語る時のポイントは、間違いなく敵が異性体である、という点ですね。蛇足かもしれませんが説明しましょう。

「ガンダム」以前のロボットアニメやSFアニメでは敵は宇宙人か怪獣でした。地球に攻めてくる宇宙人を倒し地球を守る物語です。その世界設定の時点で敵と味方は完全に区別されているため、戦う理由も明確なら正義も説明不要。ところがその常識を覆し人間と人間が戦う物語を最初に描いたのが「ガンダム」なのです。人間と人間が戦うには「なぜ戦うのか」の説明が必要だし、敵が正しくなくて味方が正しいという理論も必要です。「ガンダム」はそこで「何がなんでも主人公が正しい」のような省略をせずに、敵と味方のどちらにも正義があって、どちらにも戦う理由があって戦争をやっている物語として構築されました。これが当時新しい試みとして評価されたポイントだったし、その後つづく「ガンダム」共通のアイデンティティでもあったわけです。

ところが、今回の劇場版00では、敵は異性体。大雑把に言えば宇宙人です。これはガンダムでは禁じ手と言っても過言ではない暴挙です。なので、そこが議論の中心となるのは当然と言えます。

では、俺はどう考えるかというと、作品を観るまでは正直「それはないなぁ」と思っていましたが、観た後では「ありでしょ」と思うようになりました。それはなぜかというと、非常に単純な話で、レイヤーが変わっただけで主題は変わっていないからです。

00は、TVシリーズの時点でとりあえず終わりました。「人はなんとかわかり合えたよ」という形で四勢力が一つとなり、「敵」が全員「味方」になりました。

通常この「みんな仲良く」なるパターンというのは、共通の敵が出てきて一致団結するパターンが王道だと思います。例えばドラゴンボールのように。このパターンでは新たな敵が出てくることで初めて仲良くなることができるわけで、その敵とも仲良くなるためにはまた新たな敵が必要となり、これはこれで無限ループです。ドラゴンボールはそうやって無限に続けることができる構造を持っていたわけですが、この構造で生まれる「仲良し」がまやかしなのは明らかです。

00の場合はこれに非常に似っていますがちょっと違います。共通の敵(=宇宙人)が攻めてきたから四勢力が一致団結して仲良くなったのではなく、四勢力が一致団結して仲良くなった後に宇宙人が攻めてきたのです(まあ「仲良く」なったのはリボンズという共通の敵のおかげではありますけど)。もし各勢力がいがみ合ったままであったらこの宇宙人を倒すことで「仲良し」になるという物語の力学が生まれるわけですが、「仲良し」はすでに実現しているので物語の構造上は宇宙人を倒す必然がありません。ではどうするか。宇宙人を倒さない。これは完璧なシナリオです。

ここまで異性体エルスをあえて宇宙人と書きましたが、作品のテーマ上はエルスは宇宙人でなくとも良いのです。コミュニケーションを取るのが非常に困難な、でも意思のある生命体。ぶっちゃけ「ナウシカ」の腐海みたいなもんでもいいわけです。とにかく「コミュニケーションの取れなさそうな恐しいものが迫ってくる。しかしコミュニケーションがとれるかもしれないのでまずはそれを試そうよ」と。それだけの話です。

これはもう00の最初からのテーマどおりだし、もっと言えば「ガンダム」共通のテーマでもあります。1stガンダムではアムロとシャアが異物として遭遇したことで物語が始まり、両者のコミュニケーションが実現した時点で物語は終わるわけです。

「ガンダム」世界で宇宙人が禁じ手なのは、「ガンダム」が宇宙人が人類共通の敵でそれを倒すことで「みんな仲良し」を実現するストーリーに対するアンチテーゼであるからです。そして今回の00劇場版は宇宙人を登場させながらもその安易なストーリーに対するアンチテーゼとしては機能しているし、製作者も「戦う理由づくり」からも逃げていない。既存の「ガンダム」の常識からすると確かにちょっと遠いけど「ザンボット3」や「ブレンパワード」の守備範囲からは外れない程度の遠さです。これはこれで「あり」だと思うのです。

3) まとめ

もちろん、言いたいことはたくさんあります。宇宙人を相手にメインキャラが殉死していくあたりはちょっと安易な演出だと思うし、新キャラ(デカルト・シャーマン)にしても「これで終わりならなんで出てきたの?」と思わなくもない。沙慈があのタイミングでエンジニア志願するのもなんだかなーだし、人類の40%がイノベイターwwwとか、マリナなんで目が見えなくなったん?とか。しかしまあそういうツッコミどころも含めて、まずは「非富野非UC作品としては良くやったんじゃね?」という評価でいいのではないでしょうか。

ちなみにこの作品は「ガンダム19年ぶりの完全新作映画」というふれこみです。19年ぶりというのは「F91」以来という意味でしょうが、そもそも「ガンダム」で総集編じゃない劇場作品は他には「逆襲のシャア」と「F91」しかないわけで、その2作を比べるとどうしても見劣りしてしまうのは仕方ないと思います。実際にはTVシリーズの後日談映画なので、完全新作として「逆襲のシャア」「F91」と並べるよりは後日談OVAの劇場版「Endress Walts」あたりと対比するのが妥当ではないかと思うんですが。いずれにしても非富野劇場版である「ジオンの残光」「Endress Walts」「ミラーズリポート」あたりと比べるならば完成度は高いと思います。

そんな感じです。まあBD出たら買うかというと、買わんけどね。

カテゴリ: 映画/アニメなど 日付:
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2 thoughts on “1stガンダム世代の俺が00劇場版を肯定する日記

  1. クロスケ

    肯定します
    なんで、批判してる人たちはその物語がどんなことを伝えようとしてるかを考えずに、短絡的にとってしまうのだろうと思いました。
    そういう事書いてる自分もその人たちを理解しようと、その人たちの意見を聞こうと努力してないからわからないのかもしれません。
    いろんな人の気持ちがわかる人に、がんばらねば。
    劇場版00はある意味、理解しあうことの大切さを、そして、理解するには自分から歩み寄るしかないのだと言うことを伝えたかったのだと思います。

    返信
  2. トラノオ

    うーーん。
    否定派でしたが、そこまでOOの初期設定を理解してないから、もはやなんも言えんですね。

    返信

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